「教学基礎講座」4

大白法 平成27年1月16日(第901号)

 教学基礎講座4

「因果」 ー不完全な外道の因果説ー

 

「因果」とは原因と結果のことであり、

原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが、因果の理です。

 そして古今東西のあらゆる宗教・哲学・思想・科学にいたるまですべてが、

この因果ということを基盤に成り立っていると言っても過言ではありません。

しかしながら、

仏教以外においては、その因果が現世という限られた時間の中のものであったり、

限られた物質に当てられて論じられるもので、完全なものではありませんでした。



〈1、外道の因果〉

 

 釈尊が出現された頃のインドは、思想上の大きな変動時に当たっており、

因果に関する考察にもいろいろと種々雑多な説が立てられていました。

 経典ではそれを六師外道(六人の代表的な仏教以外の思想家)とか、

三十大外道(三十人の異説をなす者)とか、六十二見(六十二種類の誤った見解)とか種々に整理し伝えており、大聖人の『開目抄』には「九十五種」と示されています。 

 しかし、これらの思想は、概ね

 

次の三つに分類できます。

①宿作因説(宿命論)

②自在天創造因説(神意論)

③無因無縁説(偶然論)

 

①の宿作因説は、分かりやすく言えば宿命論・運命論というもので、

自分自身を含む一切のものは過去世からの因果が元になって出来ており、

現在も未来もすべて宿命によって決まるとされます。

これは当時のカースト(四姓)制度の状況下にあって、

「ある人はバラモン(婆羅門・司祭者)として生まれ、

ある人はクシャトリア(王侯)、ヴァイシャ(商 工民)として生まれる、

なぜ自分だけがシュードラ(奴隷)なのか」という、どうにもできない悩みに対して、

説得力のある答えとして出されたものなのでしょう。 

 そしてこの宿命論が形を変えて、そこに神の意志というものを見出すと、

②の神意論・自在天創造因説になるわけです。

つまり一切万物すべてが絶対的な最高神・自在天によって創造されるというもので、

自分自身がどのような身分に生まれようが、

それはすべて神の御意、神のなせるわざというものであります。

 逆にこれらとは全く意を異にするものが、③の無因無縁説(偶然論) です。

この考えは因果律を認めず、

現在についても未来についても人間の在り方に原因結果の法則はないというものです。

 しかしこれらの考えは、三つ共に人間の主体的な因行を否定するものです。

つまり、①はすべて宿命として諦めさせ、実生活上の向上・精進の心を失くさせます。

 また、②についても、すべて神の御意で決まるのであれば、

いかに人間が努力しても意味のないことになります。

悪行をなしても善行を積んでもすべて神によるとするならば、

これは既に因果の理法を否定していることになります。

当然、③の偶然論は全く人間の努力の効果を認めないもので、

現在の無信仰者の考えに似ています。 

 よって、これらの考えは、因果応報の道理に基づく釈尊からは、危険な思想・邪教として排斥されることになったのです。

 釈尊から指定されたこれら六師外道等の教えは、それぞれバラモン教を踏襲するもの、またそれに対抗するものでありましたが、すべてバラモン教聖典リグ・ヴェーダにその影響を受けていました。 

 リグ・ヴェーダには、カピラ(迦毘羅)・ウルーカ(漚楼僧佉)・リシャバ(勒娑婆)の三仙の説く因果があります。

 大聖人様は、これを『開目抄』に、

「迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆、此の三人をば三仙となづく。(中略)其の所説の法門の極理は、或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云」(御書525ページ)

と紹介され、次下に六師外道と共に因果の理法を説き尽くさないものとして、破折を加えられています。



〈二、外道の修行〉

 

 さて、 これらの六師外道の実践修行は何であったかと言うと 、

一日に三度ガンジス河に入ったり、あるいは髪を抜いたり、巌に身を投げたり、あるいは断食し、また、身を火にあぶり五体を焼いて真理を求めようとする苦行でした。

 それでは、なぜ苦行をしなければならないかと言うと、リグ・ヴェーダにその理由を求めることができます。

バラモンの教えでは、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の存在の根本原理であるアートマン(我)の一体を説いており、ここから人間の心は本来「善」であると定義づけられているのです。

しかし、元来「善」であるはずの心が、肉体と結合するとその影響を受けて心が動揺し、悪を考えるようになるから禅定を修して、心を肉体の影響から離して心の本性(悟り)を得ようとするのです。

また一方、人間の体は地水火風空と精神(意)によって構成され、肉体の影響が強い時に迷いが生じ、肉体の影響が弱い時にはそれだけ精神が浄化されているから、肉体を苦しめることによって心が肉体の束縛から離れることができると考えたのです。 

 しかしこれらの考えは、

現実世界に「梵」とか(我)とか、 予め 何らかの絶対のものを設定し、

これを中心に考えるところからくるものです。

  仏教では、縁起・因縁を重んじますが、

一口に因果と言ってもその中には六因・ 四縁・五果というものがあり、

その意味も多岐多様で、 外道のように一様ではありません。

 ここではそれら一つ一つの説明は略しますが、

例えば六因の中に異熟因というものがあります。

これは三世に亘る生命の因縁因果の法則の一つと言えます。

 大聖人様は、『開目抄』に心地感観経を引いて、

「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、 其の現在の因を見よ」(御書571ページ)

と示されています。

つまり、過去世に行ったことが因となり現在に善悪の果報となって顕われ、 また今世に行ったことが因となり未来の果を導くのです 。

 さらにまた、因の中にそのまま果も含まれるという「因果具時」も倶有因 として、仏教では説かれています。

 この因果の教理は、

さらに法華経本門に至って、久遠の本仏の本因本果の法門に続くこととなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「教学基礎講座」3

大白法(平成26年12月16日)第899号

 

仏教の起源 その②

 

釈尊の生涯ー

 

 現在、釈迦の生涯に関する年代や年齢などにいろいろな説がありますが、

ここでは日蓮大聖人様が用いられたと言われる『周書異記』の説に従って、

釈尊の生涯を紹介したいと思います。 

 

釈迦族

 

釈迦とは、現在のネパール地方の南部に住んでいた種族の名前であり、

この釈迦族は当時、 一種の共和国を形成していたと言われています。

まず十人の長を選び、その中から一人の長を選出して、これを王と称していました。

この釈迦族の首府を迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)と言いました。

 

釈尊の誕生〉

 

この釈迦族から出た聖者(ムニ)を尊称して釈迦牟尼世尊と言い、

これを訳して釈尊と言います。

 釈尊は迦毘羅衛城の浄飯王(シュッドーダナ)を父とし、

摩耶(マーヤー)夫人を母として誕生しました。

誕生した悉達多太子が、

七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言った話は広く知られています。

 

〈阿私陀仙人の涙〉

 

 浄飯王は太子の誕生を喜び、将来を阿私陀仙人に占ってもらうことにしました。

すると仙人は「この王子は将来、大王になってインドを統率するか、

出家したなら偉大な仏になるであろう。

しかし、年老いた私はその王子の成人した姿を見ることができない」と

言って涙を流したと言われています。

 

〈出家〉

 

悉達多太子は幼い頃から聡明であり、

青年時代には文武両道においても非常に優れていたので、

浄飯王は太子に王位を継がせようとしました。

しかし太子にはその気持ちはなく、

妃(きさき)の耶諭陀羅(ヤショーダラー)との間に

男子羅睺羅(ラーフラ)が生まれたのを機に、

出家の道を志す気持ちが次第に強まっていきました。

  ある時、太子は四方の城門から遊楽に出ることになりました。

ところが最初に、東の門から出ると老人に会い、 次に南の門より出ると病人に会い、

西の門から出ると死者に会いました。

そのたびに快楽の欲望を失い、

ますます俗世に嫌気が差した太子が最後に北の門から出ると、

身も心も清浄な一人の出家者に出会いました。

そこに正しく自分の理想の姿を見出した太子は、この時出家の意志を固めたのです。

これを「四門出遊(遊観)」と言います。

 

〈成道〉

 

王宮を出た太子は、

王から遣わされた阿若憍陳如(アジュニャ・カウンディンヤ)等五人の比丘と共に、

初めは阿羅邏迦蘭(アーラーダ・カーラーマ)

優陀羅羅摩子(ウドラカ・ラーマプトラ)という二人の仙人について

修行したと言われていますが、それによって悟りを得ることはできませんでした。

 その後、十二年間にわたってあらゆる苦行を修めましたが、

快楽に溺れるのと同様に、極端な苦行もまた無意味なことを悟り、

仏陀伽耶(ブッタガヤ)の近くにある尼連禅河(ナイランジャナ−)で沐浴し、

牧女の捧じた乳粥を食べて元気を恢復しました。

これを見た五人の比丘たちは、

釈尊が退転したと思い、皆その場を去っていきました。

その後、釈尊菩提樹の下の金剛宝座に座して沈思黙想の末、ついに悟りを開き、

ここに仏陀(覚者)となったのです。

時に三十歳でした。

この時、伽耶という町で仏陀が悟りを開いたということか ら、

以後この地を仏陀伽耶と呼ぶようになったのです。

 

〈転法輪〉

 

 釈尊は成道したその座で二十一日間華厳経を解き、

その後、

波羅奈国(バーラナシー)の鹿野苑(サルナ−ト)に行き、釈尊が苦行を捨てたとき、

その元を去った五人をまず最初に教化し弟子としました。

次いで、仏陀伽耶方面に行き、迦葉(カッサパ)三兄弟を弟子とし、

進んでマカダ国の王舎城(ラージャグリハ)へ入り、

そこで舎利弗(シャ−リプトラ)、目犍連(マウドガリヤ−ヤナ)の二大弟子を始め、

多くの人々を教化する一方、頻婆娑羅王(ビンビサーラ)によって竹林精舎、

また

舎衛国の須達(シュダッタ)長者によって祇園精舎が供養され教団は

大いに興隆しました。

 故郷の迦毘羅衛城に帰ったときは、

従弟の阿難、釈尊の子羅睺羅、義母の摩訶波闍波提、妃の耶諭陀羅等、

多くの同族が弟子となりましたが、

阿難の兄、提婆達多(デーヴァダッタ)は、

マカダ国の太子阿闍世と結託して釈尊の化導を妨害しました。

このような九横の大難と言われる法難に遭いながら法説き、

最後にマカダ国の霊鷲山グリドラクータ)で、

出世の本懐である法華経を説き明かしたのです。

 これら一大説教の内容は、

後に中国の天台大師によって五時八教として判釈されました。

 

〈涅槃〉

 

 五十年間の説法教化の後、拘尸那掲羅(クシナガラ)の沙羅双樹の下で、

二月十五日、八十歳で入滅されました。これを涅槃と言います。

 

 

〈八相成道〉

 

八相成道とは、

①下天(都率天より降下すること)、

②託胎(母の体内に宿ること)、

③出胎(出世すること)、

④出家(家を出て修行の道に入ること)、

⑤降摩(悟りを妨げる魔を断破すること)、

⑥成道(悟りを開くこと)、

⑦転法輪(説法をして衆生を教化すること)、

⑧入涅槃(説法を終えて入滅すること)です。

 

 私たちは、この八相成道を示された釈尊の真実の目的が、   

法華経を説くためであったことを忘れてはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「教学基礎講座」2

大白法(平成26年10月16日)第895号

 

仏教の起源 その① 

 

 ー文明・社会的背景ー

 

「仏教」という言葉には、

「仏の説いた教え」と「仏になる教え」との二つの意味があります。

 この仏についても、

仏教ではその経典によって、様々に解き明かされており、必ずしもインド出現の釈迦に限られたものではありません。

しかし歴史的に見れば、仏教はインドの釈尊によって初めて説き出されました。

今、私たちが、インド仏教の起源を学ぶことは、仏法者の常識として、

さらには大聖人の仏法を、より深く知るためにも、意義のあることと言えましょう。

 今回は、仏教が成立する以前のインドの様子について、簡単に説明しておきたいと思います。

 

【仏教成立以前の状況】

 

〈文明〉

 

紀元前3000年から2500年頃にかけて、当時インド領に属していたインダス川流域にはインダス文明が栄えていました。

 インダス文明は、メソポタミア文明エジプト文明中国文明等と共に、人類最初の古代文明の一つであり、

当時すでに下水道まで完備していたモヘンジョ=ダロとハラッパーの両都市の遺跡は世界に広く知られています。

 また、当時既に文字を使用していたことも、古代文明の特色として挙げることができます。

このインダス文明の中心となった地域は、現在はパキスタン領になっています。

 

〈民族・人種〉

 

 紀元前2500年頃のインドには、

ドラヴィダ族と言われる人種が広く定着し、そのほかにも多くの人種がそれぞれの地域に住んでいました。

 紀元前1500年頃になって、インダス川上流のパンジャーブ地方アーリア人が侵入し、先住民を征服したことから、

次第に自由民(アーリア人)隷属民(ドラヴィダ人など)との区別がつけられるようになりました。

 

〈階級制度〉 

 

 その後、アーリア人ガンジス川上流地方に移住した頃には、人種間の区別から、

職業や地位による厳格な身分の差別が定着し、 カースト制度と呼ばれる四姓制度が確立されました。

 この四姓とは、

バラモン(婆羅門、司祭)・

クシャトリヤ(王候、士族)・

③ヴァイシャ(庶民・商工層)・

シュードラ(隷民=アーリア人以外の人種) を言い、

カースト(caste)とは、ポルトガル語の casta(血統)に由来するインド社会で歴史的に形成された身分制度です。

このカースト制度は、その後さらに細かく分かれて、その数は4000種にもなり、

異なった階級の間での結婚はもちろんのこと、食事を共にすることさえも禁じられたのです。 

 

バラモン教ヴェーダ聖典

 

このような社会体制の基盤となったのは、アーリア人による「リグ・ヴェーダ」を根本聖典とするバラモン教でした。

アーリア人はもともと宗教的な民族で、 大自然の現象を畏敬し、自然の力を神格化しました。

その大自然の神々への讃歌・祈祷・呪法・音楽などをまとめた聖典を「リグ・ ベェーダRigVeda]と言います。

(「ヴェーダ」とは「神聖な知識」という意味です。

 この「リグ・ヴェ−ダ」が基本となって、さらに三つのウェーダ聖典が作られました。

 大聖人様は御書に、この四つのヴェーダを「四韋陀」と記されています。

 このように紀元前1500から500年ごろのインドは、「ヴェーダ時代」とも言われるように、

バラモン教が広く行われ、それにつれて四姓制度も深く定着していきました。

ガンジス川で沐浴し、牛を崇めることで知られるヒンドウー教は、バラモンの思想が基礎となって出来た宗教です。

 

〈その他の思想・宗教〉

 

 長い年月にわたってヴェーダ聖典を尊重する中で、経典「ブラーフマナ」に 代表される祭式万能思想が生まれ、

さらに知識を重視し、宇宙の根本真理を探究する思想が芽生えてきました。

 特に、「 リグ・ヴェーダ」に 端を発した真理探究の思想は、

紀元前800から500年ごろに至って、ウパニシャッド( 奥義書)哲学として結実します。

 このウパニシャッドーの思想とは、

宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と 個人の存在の根本原理アートマン(我)とが同一であるという

「梵我一如」の考え方が基本となっています。

 この他にも『開目抄』等にみられる三人のバラモンの行者(三仙)、すなわち迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の教えがあり、

また釈尊が出現された時代には、中インドで六師外道が勢力を誇っていました。

 『三三蔵祈雨事』には、

「外道と申すは仏前800年よりはじまりて、はじめは二天三仙にてありしが、やうやくわかれて九十五種なり」(御書八七六㌻)

とあります。

 ここでいう「二天」とは、古代インドで崇拝された 摩醯首羅天(大自在天)と毘紐天(自在天)のことです。

 

        ◇  ◇

 

 バラモンをはじめとする仏教以外の思想について、大聖人様は

『開目抄』に、

「外道の所詮は内道に入る即ち最要なり」(同 五二五㌻)

と、 法華経の開会の立場から内道(仏教)に入るための序段と位置づけられています。

 なお、これらの思想・宗教は、いずれも因果の理法が明確でなく、現実から遊離した教えであったために、

すべての人を根本的に救済する力はなく、カースト支配の社会体制を改革することもできなかったのです。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

「教学基礎講座」1

大白法(平成26年9月16日)第893号

「釈迦のめざしたもの」

 

 《はじめに》

 このたび平成四年二月号より毎月一回全三十二回にわたり連載した

「教学基礎講座」を再掲載することになりました。

  この「教学基礎講座」では初めに釈尊について、その生涯と教義を概説します。

さらに仏教の教理の中から主要な語句を解説しながら、基本的な教義を順次紹介し、

その後、

釈尊法華経、天台・伝教の法華経、そして日蓮大聖人の文底下種の法華経について、

それぞれの立場と関連性を述べ、

最後に日蓮大聖人の仏法全般からその要点を解説します。なお、再掲に当たっては、

今後の法華講員の教学研鑽に役立つよう、必要な部分については加筆・訂正します。

 

 仏教は、すべての人の根本的な救済を目指しています。

 では釈尊はいかなる理念をもって民衆を救済しようとしたのか、

二つのエピソードから考えてみたいと思います。 

 

四門出遊(四門遊観)〉

 釈尊はカピラ城の太子だったとき、王城の四つの門から外出した際、

東門で腰の曲がった老人に、南門で死にかかった病人に、西門で葬列の死者に出会い、

これらの老・病・死という現実は誰人も逃れられない苦しみの相であることを知って、

その解決方法を考えているとき、北門で一人の出家者が身も心も清浄でいる姿を見て、

決然として出家の志を抱きました。

 

〈修行と開悟〉

 出家した釈尊は、まず二人の仙人を順次に訪れ、

教えの通り禅定を修行しましたが、満足のできるものではありませんでした。

 そこで釈尊は山林にこもって苦行を修しましたが、

それでも悟りを得られなかったため、

河で身を清め、村の少女が捧げる乳粥を食べて元気を取り戻しました。

そして苦行は悟りにとって無意義なものであることを知り、

近くにある菩提樹の下で沈思瞑想し、ついに大悟を得て覚者となりました。

時に釈尊三十歳の時であったと言われています。

 

〈現実重視〉

 これらのエピソードから釈尊が現実を直視した上で、

人生を苦と捉え、その解決の道を求めたことが判ります。

すなわち仏教の基本理念は、現実の人生を重視するところに立脚しているのです。

 

〈毒矢の譬え〉

 この苦を救済することについて、『箭喩経』という経典に「毒矢の譬え」があります。

それはおよそ次のような話です。

  ある人が毒矢に当たって苦しんでいた。

彼の親戚や友人は、早く医者に診せることを勧めたが、肝心の本人は、

「私に毒矢を射たのは、バラモンの人か、庶民か、それとも隷民か。

またその人の姓名は何というのか。

その人は長身か短身か、皮膚の色はどうか。どこに住んでいるか。

それが判らないうちは毒矢を抜き取るわけにはいかない」と言い、さらに彼は、

「この毒矢に使った弓は何か、どんな種類の弓か、その弓の弦は何で作られたものか、

矢幹は何か、矢は何の羽を使用したのか、毒の種類は何か」など

と質問し議論しているうちに、

毒が全身に回って、ついに死んでしまったという。

 この喩えは、仏教の現実重視の立場を端的に表しています。

すなわち人生の悩みや苦しみを解決するのに、

直接役に立たない不毛の議論は避けるべきであると教えています。

 

〈仏教では超越神の存在を否定〉

 釈尊の生きた時代は、

「来世は現実に存在するか否か」「世界は有限か無限か」「身体と霊魂は同じか否か」

などの観念論が盛んに論じられていました。しかし釈尊は、

それらの観念論はいくら追求しても、直ちに結論を出せる問題ではなく、

かえって偏った考えに執着して、

正覚(正しい悟り)を得られないと戒められています。

また仏教では、現実から遊離した創造神や超越神などの架空の存在を認めず、

人間の迷悟(迷いや悟り)や禍福(災いと幸せ)は、

すべて自らの原因と結果によってもたらされるのであって、

それ以外の何ものでもないと説いています。

 最近仏教に名を借りた新興宗教が「霊界からのお告げ」と

称してこれを売り物にしていますが、

これなどは仏教とは似ても似つかぬ外道(仏教以外の低級宗教)と言うべきでしょう。 




〈未来の果は現在の因による〉

 私たちはややもすれば、

貪り・怒り・愚かという三毒の矢が我が身に刺さっているのに、

目先のことに執われて、毒矢を抜き取ることを忘れがちではないでしょうか。

  釈尊はこの世界の現実を見つめ、

人生を「四門出遊」に表わされる四苦・八苦そのものと見、

その苦をさらに踏み込んで

この世のすべては苦であり、空であり、無常であり、無我であると達観しました。

そして諸々の苦の根本的解決は

三世(過去・現在・未来)に亘る因果の法に立脚しなければならないことを

明かされました。つまり

現在の果報は過去の業因によるものであり、

未来の果報は現在の業因によると言うのです。

しかも三世は別々のものではなく、

過去と未来は現在の一念に包含されるが故に、

過去の悪業を浄化し、未来に菩提の果報を得るためには、

現世において無上の善業たる正法に信順しなければならないと説いて、

釈尊は苦の現実相からの解脱をめざしたのです。

 



〈総本山の五重塔

釈尊の仏教はインドから日本へと東に渡ってきた。

末法において大聖人の仏法が日本からインドへと西に還り、

さらに広宣流布するという意義から総本山の五重塔は西向きに建っていると言われる。